NKen’s diary

プラチンブリ(タイ)から書きたい事を書いて行きます

阪神大震災翌日以降

プラチンブリ(タイ)からこんにちは

 

 阪神大震災、当日の事は比較的覚えているが、翌日以降の記憶は時系列が曖昧である、思い出せる範囲で書いてみる。

 家が倒壊していなくても、停電になったままの家も多かったり、中はぐちゃぐちゃ、余震で1日に何度も揺れる。 その様な状態なので学校に避難している人も多かった。 友達や知り合いがどうなったか心配なので、家に行って見るが傾いたりしている家も多かった。 学校にも見に行って見るが、人が多すぎてあまり知っている人には会えなかったが、それでも何人かには会えて喜びあったりも出来た。

 何か食事が配られる様だと言う情報があり、小学校に行って並んで配給品を貰ったり、知人の安否を確認しに回ったり、部屋の片づけをしたりで2日目も終わった様に思う。 夜にまた高台の方に行って見ると昨日と同じく、町は暗く南の方は真っ赤な炎に包まれている。 報道なのか消防なのか、ヘリコプターが飛び交っていた、火事がほぼ収まったのは3日目だった様に思う。

 確か3日目だったと思うが、小学校のグランドに仮設電話車が来て無料電話サービスが始まった。 早速並んで漸く会社と連絡が取れた、我が家は全員無事だと伝え、すごく喜んで貰えた。 妹は京都に居たが、どうやっていつ連絡が取れたのか思い出せない。。。 給水も始まったので、バケツを持って学校を往復しては洗濯機に水を貯めた。

 何日会社を休んだかよく覚えていないが、多分3~4日だったと思う。 普段はオートバイで国道2号線を通って高砂まで通勤していたが、2号線は通れない様子、とにかく情報が無いので、どこが通れるかもよくわからないが行って見るしかない、西神を通って西明石に出た、途中ガソリンを入れ様としたが長蛇の列、オートバイだったので車の列とは違う所で入れてくれた。 会社までの道は比較的まともで、そんなに迂回させられる事も無く行けた。 16日は確か休日だったと思ったが、出勤してとりあえず急ぎの仕事は片付けていたので、17日からの休みもあまり影響が無く助かった。 虫の知らせだったのか? 普段から出来る事はなるべく先に片付ける様にしていた事が功を奏した。 

 会社の近くには銭湯も有り、何日ぶりかで風呂にも入れた。 迂回するので通勤も面倒だし、家に帰っても水も無いので、しばらく会社で寝泊まりし、洗濯機も有ったので洗濯も出来た。

 休日は家に帰って、片付け、水汲みの後は、知り合いの家を回ったり、以前によく通ったところを歩いて、どんな風になっているかを見て回った。 そんな中、友達の一人と連絡が取れてなかったので、職場を訪ねてみると西明石の病院に入院しているので行ってあげて下さいと言われた。 倒れかけた家の窓から出る際に割れたガラスなどで足を怪我した事から破傷風になった様で、地震から1週間後位に避難所からヘリコプターで運ばれたそうだ。 病院に行った時は昏睡状態で意識は無かった、それから何度か病院に見に行った、幸いにも行く度に回復してくれた。 休日などを利用してその人が住んでいた倒れかけたアパートから、何度か持ち出せる荷物を取り出して自分の家に預かっておいた。

 水道が使えず不便なので、店もずっと休んでいた、時間が有るのでお袋は避難所でボランティアをしていた。 自分は何故か殆ど何もできなかった、友達の引っ越しを手伝ったのが2件と、隣の家にブルーシート掛けてあげた位では無いだろうか。 そんなこんなで水が来たのが1か月後位で有った、それまでは水汲みが休日の仕事であったと思う。 ガスが来たのは3か月後。 3月も中頃、漸く普通に生活できる様になったと思ったら、あちこちで解体が始まった、粉塵が凄くてそれまでに無かったアレルギー性鼻炎になった。 それ以来タイに移住する1999年まで毎年3月には花粉症に悩まされた。

 この地震で家が倒壊したところも多かったが、運の良し悪しも大きいと思う。 自分の家の周りは倒壊してはいないがそれなりの被害、両親の家の周りは殆どどうもない。 自分の家より少し下ったところでは軒並み倒壊していたり。 数百メートルの違いで全く様子が変わる。 それにしても倒壊し圧死した人や、倒壊後火が出て逃げれなかった人は可愛そうだ。 運の良し悪しも有るが、地震が起きた時家が倒壊してしまってはその先が無くなってしまう確率が高い、やはり耐震と言うのはある程度必要なのであろうか。 家の耐震と言うのは難しい、結局震災後も屋根瓦は軽量のスレートみたいなやつに交換したり壊れた壁などは補修したが、建物そのものはそのまま使っているし。。。

 震災の時、まず必要になったのが水であったが、タイの家では備蓄しているが、日本の家には無い。 食料も当時は駄菓子屋だったので、最悪お菓子は有ったけど、今の日本の家には冷蔵庫に有る物位だ。 タイの家だとまだ有るかな(家庭菜園も有るし)、調理も当時は石油ストーブ有ったけど今は使っていないし、タイの家だとまだ炭の備蓄もあるし、プロパンガスだし。。。 日本の家はお袋が一人で住んでいる、お袋は当然震災体験者ではあるけど、もうそんな事は起こらないと思っているのか、忘れてしまったのか、当時より完全に軟弱になっている。。。

 昨日ユーチューブで日本の番組見ていたら震災29年の特番で、元神戸市職員の方で全国の役所の人に向けて、震災時の対応に付いての講義をされている高橋さんと言う方が紹介されていた。 当時の映像も出ていて、顔つきとかしゃべり方とかおそらく自分の知っている高橋さんだ、もう30年以上も付き合いが途絶えてしまっているが、多分間違いないと思う。 75歳になられた様であるが、まだ一生懸命活動されている様で素晴らしい、何もできていない自分が恥ずかしい。

 2024年は元旦から能登半島方面で大きな地震も有ったが、自分は全く何もできていない、せめてどこかのタイミングで募金位は出せたらと思う。。。